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サンマリエ

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2015年5月17日 (日)

「幸せから望む願望」と「恐怖感から望む願望」の違いって?

今回は究極な話なので、誤解がなければいいな、と思うのですが、

「死を恐れない」ということは、

「自ら死に向かってもいい」と言っているわけではありません。

それだけは、誤解することなく、お願いします!


ふと思うんです。

「恐怖感から望む願望」と「幸せから望む願望」って

違うよなぁ、と。


「●●しなくちゃ、幸せになれない!」

と思っている人も、まさにそのパターンで、

出世しなくちゃ、結婚しなくちゃ!と思っています。


それは、

「恐怖感から望む願望」だと思うのです。

その場合は、それが叶ったとしても、

あまり幸せにはなれないかもしれません。

反対に、

「仕事が楽しいから、もっと力をつけたい!」

「愛する人がいるから、その人と共に生きたい!」

という思いから、

出世や結婚を望む場合は、

「幸せから望む願望」だと思うんです。

その場合は、幸せにより近づけるような気がします。

私たちは潜在意識の中で

いつもどこかで「死」に対する恐怖感があります。

その恐怖感を元に行動しているところもあると思うんです。

死の恐怖があるからこそ、人は食べていくために働く。

孤独が怖いのも、最終的には死を連想しているような気がします。

でも、どんなに頑張っても、人はいつか必ず死にます。

不死の人は今のところいません。

ただ、スピリチュアル的なことを言ってしまうと、

人は死んでも、「魂は永遠」なんです。

つまり究極の不幸って、

「実は存在しない」とも言えるんです。

それって、どういうことなのか?というと、

私の解釈で言えば、

結局、私たちはいつだって大きな力で生かされ、愛されている、

ということだと思うのです。

ただ、ただ幸せに生きていけばいい」

そんな風に神様が言っているように思えるのです。

それは、人はいつか必ず死ぬのだから、いい加減に生きていけばいい、

と言っているのではありません。

また死を怖がることないから、自殺してもいい、

ということでもないです(自殺は絶対にだめ!!)。

ただ、「死」が分からない私たちにとって、

今生きている状態というのは、

子供のころの注射を打つ列に並んでいるときの心境

そんなに変わらないのかもしれません。

そのときって、

健康維持のために注射を打つのに、

「痛くて死んじゃうんじゃないか?」と思うほどの

恐怖感ありませんでした?(私だけ?・笑)。

いざ、打たれると、

そのときはもちろん痛いのだけど、

「あれ?そんなに怖がることなかった!

今まで怖がっていたのは一体なんだったの?」って。

その死の恐怖感が潜在的にあるからこそ、

出世して食べていくお金をたくさん稼がなくてはいけないし、

結婚しなくては孤独で生きていけなくなる、

と思い込んでいるところもあるのかも。

ただ、何度も言いますが、

「恐怖感が元で望む願望」と、

「幸せになりたいから望む願望」って、

ちょっと違うような気がするんです。


自分が注射を打たれる順番になるまでの間、

恐怖感から、注射を痛く感じない練習として、

自分のひざなどをつねったりする人もいますが(笑)、

結局は、注射の痛さは同じです。

反対に、注射への恐怖がなければ、

わざわざ自分のひざをつねったりはしないでしょう。

どうせい、ひざをつねってもつねらなくても、

注射の痛さは同じだし、

恐怖感に怯えようと、怯えまいと

いつかは注射の順番が来てしまうのであれば、

注射の列に並んでいる間は、

自分が好きなこと、幸せになれることを

やっていた方がよくありませんか?


「好きなこと、幸せになれること」いうと、

好き勝手に生きてもいいだ!怠惰な生活を送ってもいいんだ!

と思う人もいるかもしれません。

でも、怠惰って、幸せになれる行為じゃないですからね。

心がワクワクしないから。

例えば、働かずに借金作って、欲望のおもむくままに遊びほうけるのって、

幸せではないですからね。

始めは欲望が満たされる喜びもあるかもしれませんが、

それは「飽きる」喜びです。

そんなのは「幸せになれること」とは言えません。

では、飽きない喜びとは・・・?

究極なことを言ってしまえば、

「愛」ですよね。

「自分と自分以外の人に向けた愛」


・自分をありのままに受け止め、成長を願う愛。

・人に対して自分が役立つ喜び(=他人愛)。

それさえきちんと持っていれば、

自分が注射の順番になるまで(=自分の命がなくなるまで)、

恐怖感よりも幸福感で過ごせるし、

注射を打った後も、幸せに過ごせるのかもしれません。

このブログでは、自分の「思い」が世界を作る。

ということを書きましたが、

(『あなたはどんな世界で生きていますか?』 http://amba.to/Vzadis

そもそも潜在的にある「死の恐れ」から、

私たちは自分の世界を作っているところもあるかもしれません。

つまり「恐怖を感じる世界」を作ってしまっているのでは?と。

そして、今は、注射前にひざをつねっているような行動を

している人が多いような気がするのです。


そうしたいわけではない。

ただ、ただ注射が怖いから、今ひざをつねっている、みたいな。

ひざをつねったって、注射の痛さは変わらない。

恐怖感を感じていてもいなくても、

いつかは注射の順番が来る。

さらに、その注射は自分が思っているような怖いものではないかもしれない。

実際は私たちが思っているような恐怖(=死はすべてを失う)が

存在しないのであれば、

もっと、「恐怖感から選ぶ選択」ではなく、

「幸せになるための選択」ができるようになるのでは?


もっと自分らしい選択ができるようになるのでは?

とも思うのです。


だったら、注射を打たれる前も、

もっと「幸せから望む願望」を持ち、

それを叶えるための時間を過ごしたくないですか?

死を怖がりすぎると、自分の世界は「恐怖の世界」になる。

注射の順番が来るまで、

ただ、ただ、幸せになりませんか?

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